🔭コラム:海外で知財を教え四半世紀を迎えて (竹中俊子)
私は去年の4月から慶應義塾大学大学院法務研究科(法科大学院)に新設されたグローバル法務専攻(LL.M.)で客員教授として知財の科目を担当している。慶應とワシントン大学(UW)の間でダブルディグリーLL.M.プログラムが設立されたため、両大学のジョイントアポイントメントで前期は東京で、冬学期(1月から3月)はシアトルで教えている。ワシントン大学で教える講義は全て冬学期に集中させたので、秋学期はミュンヘン工科大学(MTU)のMBAプログラムでババリア州の客員教授として工学部やビジネススクールの学生に知財マネージメントを教えている。これに加え、リヨンやストラスブール大学で集中講義を行っているので、私の講義をとる学生は学部生、大学院生、法律を専攻する者しない者とさまざまである。共通することは全て英語で教えていることである。
私が特許法の研究者になったのは偶然が重なった結果である。きっかけは、成蹊大学を卒業し外資系企業の特許部で出願業務に従事したことでアメリカ特許法の実務に興味を持つようになったことである。あくまで実務の能力を高めるため、2年の予定で日本を旅立った。UWを選んだのも、「アメリカ特許法の権威として最も有名なチザム先生のところで学べ」という今は亡き恩師紋谷暢男先生の鶴の一声で、シアトルという聞いたこともなかった町で生まれて初めての一人暮らしを始めることになった。その後、チザム先生の勧めで博士号を取得することになり、卒業と同時に先生が立ち上げた研究所の助手としてUWに就職した。数年後、先生が他の大学に移ることになったため、研究所と先生が担当していた講義を引き継ぐことになった。アメリカの場合、大学教授は全米ロースクール協会が主催する履歴書の回覧・面接を経て就職するルートが王道となっているので、既に授業を担当していた実績に基づく就職は例外であった。特に、アメリカのロースクールでJDを取得していないため基礎科目を教えられないであろう研究者をテニュア付きとすることを懸念視する教授も多かったようである。教授会で昇進に必要な票を確保できたのは私を支えてくれたUWの元恩師である同僚たちのおかげであり、今も感謝の念に堪えない。
外国人であった私がアメリカのロースクールでテニュア付きの教授となることができたのは日本が注目を集める時勢によるところも多い。私がUWのLL.M.に入学した1989年から博士課程を卒業した1992年は、日本が世界一の国際競争力を誇り、アメリカの産業界は知的財産権を侵害して競争力を維持していると批判していた。そのため、英語で日本の特許法をアメリカと比較して解説できる私は国際会議で発表する機会を得ることができ、その内容がアメリカの法律雑誌に掲載されることも多かった。また、当時は給料の良い特許弁護士になれるのに大学で特許を教えようというアメリカ人は少なかったのも幸いした。現在のアメリカでは、給料よりワーク・ライフバランスの良い教授職の人気は高く、ハーバードやイェール大学を卒業し、博士号を複数持っていても、なかなか良い大学に就職できないと聞いている。
英語で講義を行うようになって四半世紀が経ったが、未だに講義の前は緊張する。話す内容はスライドにまとめていないと、途中で話すことがなくならないか、講義の趣旨から逸脱しないか心配で落ち着かないし、講義直前までスライドを何度も見直すことも多い。チザム先生は講義の直前に来て殆ど準備をしていなかったが、私は何年教えてもそのようになりそうにない。年間500万円以上の授業料を払っているアメリカ人学生は、講義の内容はともかく私の日本語訛りを講義の評価で批判してくる。驚くべきことに、アイルランド出身の同僚でさえ、アメリカ英語を話さないと批判されるという。それと比べると、日本やヨーロッパでは訛りのある英語を話すことは常識で、外国語を話す苦労を知っているので、教えるのも気楽である。更に、アメリカの学生は既に特許事務所や大学のライセンスオフィスで働いた経験を持つ者も多く、高度の質問をしてくる上に、手をぬいて判例を読まずに講義をすると細かい間違いを指摘してくる。従って講義自体が真剣勝負だが、教えがいもある。これに対し、日本やヨーロッパの学生は質問をするように促しても講義中は静かで、ちゃんと興味を持って聞いているのか心配になることがある。そこで、発言した学生に講義参加点をあげる制度を導入したところ、アジアやヨーロッパの学生もだんだん発言するようになったが、ドイツでは思わぬルールに驚かされた。そのルールとは講義に出席する学生と出席しない学生を差別してはいけないというもので、発言を求めることは差別に該当するので加点できないということであった。聞けばこのルールは、ドイツのどこかの大学が身体的な理由で講義に出席できない学生に訴えられ敗訴したことに起因するとのことであった。アメリカであればそのような学生も講義に出れるよう大学に設備を整える義務が生じるところだが、そのような設備を作らず責任を逃れるために出席を強制しないというのは本末転倒ではないか。アメリカの常識が世界の常識から外れることはよくあるのだが、ドイツの常識もアメリカや日本の常識から外れることがあるのだと痛感した経験だった。
いろいろな国で教えることはこのようなカルチャーの違いを知ったりその国の知財制度を学びその分野の学者と交流したりすることができることが何よりの喜びだが、最近外国における日本のプレゼンスの低下をひしと感じることが多い。日本人留学生及び日本から研究に来る学者が激減し、アメリカの多くの大学の日本研究の学科や研究所が閉鎖されてしまった。90年代日本に注がれていた注目は中国に集まり、どの大学も中国留学生の獲得に躍起になっている。30年前は全米一を誇ったUWの日本法の講義の受講者も最近は4~5人で、閉鎖の危機に迫られている。これに加え、アメリカでは、パテントトロールの横行により私の専門である特許制度自体の存在意義が疑わる事態となっている。知財立国のスローガンの下、アメリカのプロパテントに追いつき追い越せとしていた2000年頃の日本では、早稲田のRCLIPが設立され潤沢な知財研究や教育の資金が与えられたが、現在は知財プログラムが下火になりイノベーションという実体のない名前のプログラムに転換されてしまった。そのような中、今年から始まった早稲田の知財LLMは、私にとってとても心強いニュースであった。
知財を専門とする学者としてその存在意義を信じる一方、最近の論文やニュースを読んでいると、第一次産業・第二次産業の時代に発展した特許制度の基本コンセプトは情報化時代・オープンイノベーション・グローバル化したビジネスと整合できなくなっているのかもしれないと思うことが多い。去年の夏、シリコンバレーやシアトルのハイテク企業知財担当者にインタビューを行ったが、変革するイノベーションやビジネスのニーズを知れば知るほど、排他権というコンセプト自体が時代遅れになっているという印象を持つようになった。そのため、現在は基本コンセプトを再考し、排他権ではなく技術を共有するための権利を創設する第二の特許制度を提案する論文を書いている。調べてみると同じようなことを考えている人は結構いるようで、既にある提案より革新的な制度を考えるのはワクワクする。考えてみれば、UWで学び始めてから早30年、ずっと特許やその他の知財制度について研究してきたが、技術やビジネスの発展によって毎年魅力的な研究課題が生み出されていくので研究にあきたことはない。このように魅力的な分野で研究し、研究成果を学生や社会に還元できる現在の職に就けたことを感謝する毎日である。
竹中俊子(ワシントン大学ロースクール・慶應義塾大学大学院法務研究科 教授)