COVID-19、TRIPSウェイバー、そしてワクチン特許紛争(中山一郎)

 本コラムを前回筆者が担当したのは2020年5月末であり、新型コロナウイルス感染症(以下、「COVID-19」という。)のパンデミック初期にあたる。2020年5月のWHO決議の直後でもあり、前回のコラムでは、WHO決議を契機に、ワクチンなどの特許権について、強制実施権等[1]により特許権を制限すべきか、それとも特許権者の自発的取組みに委ねても医薬品アクセスは確保されるのか、という議論が始まりつつある状況を紹介した。
 今回のコラムでは、その後の「想定外」の展開を紹介する[2]
 
TRIPSウェイバー提案の登場
 強制実施権等か、自発的取組みか、という当初の(伝統的な)議論の構図は、その後一変する。2020年10月に、「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」(以下、「TRIPS協定」という。)の広範囲の規定についてその履行義務を免除(waiver)する提案が、インド及び南アフリカによりTRIPS理事会に提出されたのである。なお、この提案への反対意見も考慮し、その後の2021年5月に、免除範囲を多少限定した修正提案が提出されている(以下、当初の提案を「当初提案」、修正提案を「修正提案」、両者をあわせて「ウェイバー提案」という。)。
 
 ウェイバー提案は、TRIPS協定の広汎な規定について加盟国の履行義務を包括的に(例えば、特許であればTRIPS協定第2部第5節を包括的に)免除するものであり、強制実施権等以上に知的財産権を制限する内容となっている。すなわち、強制実施権等であれば特許権者に対して報酬が支払われるが(TRIPS協定31条(h))、ウェイバー提案では、知的財産を無償利用することができ、特許権者への支払いは不要である。また、許諾範囲や期間の限定など、TRIPS協定31条が強制実施権等の許諾に際して求めている条件もウェイバー提案では要求されない。さらに、強制実施権等が特許権を対象としていたのに対して、ウェイバー提案の対象は、特許権のみならず、営業秘密、意匠権や著作権に及ぶ。
 
 このように強制実施権等以上に「過激」なウェイバー提案に対して、従来、強制実施権等についてすら消極的であった先進国は当然に反対するだろうと予想された。ところが、2021年5月、米国はウェイバー提案への支持を表明した。プロパテントの代表選手と目された米国の支持がウェイバー提案支持者を勢いづかせたであろうことは想像に難くない。
 
 これに対して、2021年6月、EUは対案を提案した。EU提案のポイントは、ドーハ宣言[3]でも確認されたTRIPS協定の柔軟性を前提に、COVID-19パンデミック下の医薬品アクセスへの対応策としては、TRIPS協定の広汎なウェイバーではなく、同協定31条で認められた強制実施権等を基本としつつ、その円滑な利用が進むように、要すれば運用上の明確化や見直しを図る点にある。
 
TRIPS閣僚会議決定~果たしてウェイバーと呼ぶことが適切か?
 その後WTOにおいて交渉が続けられ、2022年6月にTRIPS閣僚会議決定が採択された。結論からいえば、同決定は、確かに免除(waiver)との語も用いてはいるものの、その内容は、インド及び南アフリカが提唱したウェイバー提案からは程遠く、むしろ強制実施権等を基本とするEU提案に近い。
 
 まず、基本的な枠組みについてみると、TRIPS閣僚会議決定は、適格加盟国[4]は、同協定31条に従って特許権を制限できるとした上で、同条の適用に際して、同決定が確認し、免除するところによる(as clarified and waived)としている(パラ1)。つまり、免除対象は、TRIPS協定31条の一部であって、基本的スタンスとしては、あくまで同条に基づく強制実施権等による対応を前提としている。また、対象とする知的財産は、基本的に特許発明のみである[5]。このように、TRIPS閣僚会議決定は、インドや南アフリカによるウェイバー提案がTRIPS協定の広範囲の規定の履行義務を包括的に免除し、特許発明以外の幅広い知的財産について無償利用を可能としていたこととは、基本的発想において大きく異なる。
 
 さらに、TRIPS閣僚会議決定の具体的内容を見ても、TRIPS協定31条の解釈明確化と考えられる部分が多い。例えば、同条に基づき加盟国が強制実施権等を設ける根拠法令たる「国内法令」は形式を問わないこと(パラ2)、特許権者との事前協議が不要であること(パラ3(a))[6]、特許権者に支払われる適当な報酬の算定においては、ワクチンへの衡平なアクセスを目指すワクチン配布プログラム(明示されていないが、COVAX[7]のような取組みを指すと考えられる。)の人道的・非営利目的を考慮し得ること(パラ3(d))などが、そうである。
 
 一方、TRIPS閣僚会議決定は、強制実施権等の許諾を主として国内に限定するTRIPS協定31条(f)の義務を、適格加盟国が本決定の下で製造した製品を他の適格加盟国に輸出する場合に免除すること、そしてその輸出が、ワクチンへの衡平なアクセスを図る国際的・地域的な共同イニシアティブ(明示されていないが、やはりCOVAXのような取組みを指すと考えられる。)を通じてなされる場合も31条(f)の義務免除の対象であることを明記した(パラ3(b))。さらにくわえて、輸出目的強制実施権等により生産された製品は、原則として再輸出が禁止されるが、例外的に人道的かつ非営利目的であれば再輸出も可能であるとする(脚注3)。
 
 このようなTRIPS協定31条(f)が適用されない輸出目的の強制実施権等は、ドーハ宣言パラ6問題[8]を受けて新設された31条の2において既に認められている。同様の内容を適格加盟国によるCOVID-19ワクチンの輸出についても認め[9]、それをCOVAXのような取り組みを通じて行うことや例外的に再輸出を認めることは、新たな免除(ウェイバー)ともいえなくはない。
 
 もっとも、新たな免除(ウェイバー)とはいっても、それらは基本的には強制実施権等の使い勝手を高めるものに過ぎない。TRIPS閣僚会議決定は、あくまで31条に基づく強制実施権等を前提として、せいぜいその運用の改善を図るにとどまる。したがって、インドや南アフリカなどがウェイバー提案として主張した内容とは全く異なり、もはやTRIPS閣僚会議決定をウェイバーと呼ぶことが適切かとの疑問も生じる。
 
 なお、今回のTRIPS閣僚会議決定は、COVID-19ワクチンに限ったものであり(パラ1)、6月以内に診断及び治療についても、今回の決定の適用対象に追加するか否かが判断される(パラ8)。また、今回の決定の対象期間は5年間であり、毎年レビューされるが、延長も可能である(パラ6)。
 
mRNAワクチンをめぐる特許紛争
 WTOでのウェイバー提案をめぐる議論が一区切りを迎える一方、mRNA 技術を用いたCOVID-19ワクチンをめぐって特許紛争が生じている。
 
 世界的にも広く流通しているCOVID-19ワクチンを開発したモデルナ(Moderna)は、2022年8月、同じく広く流通しているCOVID-19ワクチンを製造販売するファイザー(Pfizer)及びビオンテック(BioNTech)がmRNA技術に関する特許権を侵害していると主張して、米国及びドイツにおいて侵害訴訟を提起した(2022年8月26日プレスリリース)。
 そのモデルナ(Moderna)とファイザー(Pfizer)は、それぞれ、アルナイラム・ファーマシューティカルズ(Alnylam Pharmaceuticals)から2022年3月に米国において特許権侵害訴訟を提起されている(2022年3月17日プレスリリース)。
 そしてビオンテック(BioNTech)も、また、2022年7月、ドイツにおいてキュアバック(CureVac)から特許権侵害を理由に訴えられている(2022年7月5日プレスリリース)。
 
 このように特許紛争をめぐる状況は錯綜しているが、これらの特許紛争には、一つの興味深い共通点がある。各社のプレスリリースによれば、特許権者は、損害賠償のみを請求しており、差止めを請求していない。つまり、mRNAワクチンの流通は止めずに、金銭の支払いのみを求めているのである[10]
 
 この点をどのように理解するか。一つの見方としては、特許権者である製薬企業がその社会的使命に鑑みてワクチンの流通は止めないと判断したのかもしれない。より下世話な言い方をすれば、社会的評判の低下をおそれたのかもしれない。あるいは、全てのワクチン需要を自らが満たすことができないとすれば、損害賠償のみの請求が合理的に考えて得策であると判断したのかもしれない[11]
 
 特許権者である製薬企業の思惑をどのように理解するにせよ、差止めを請求せずに損害賠償のみを請求することは、強制実施権等を許諾する場合と実質的な効果はさほど変わらない(特許権者に支払われる金額の多寡は別論)。ウェイバー提案に端を発したWTOでの議論が強制実施権等を基本とするTRIPS閣僚会議決定に収斂していく動きが、特許権者である製薬企業の行動にどのような影響を与えたのかは定かでない。とはいえ、ワクチン流通は尊重されるべきだが、特許権者には然るべき金銭が支払われるべきであるという点において、両者のベクトルは同じ方向を向いているといっても差し支えないだろう。
 
第1幕が終わり、第2幕が始まる?
 かくしてウェイバー提案をめぐる議論の第1幕は終わり、TRIPS協定履行義務の広汎な免除というウェイバー提案の目論見はひとまず頓挫したかにみえる。
 
 もっとも、これまでのところ採用されるには至っていないにせよ、ウェイバー提案が議論の構図を変えたことも確かである。ウェイバー提案登場以前は、強制実施権等を活用すべきか、それとも自発的取組みに委ねるべきかが議論の対立軸であった.ところが,強制実施権等以上に「過激」な免除提案が登場したことにより、WTOでの議論においては,強制実施権等は不十分であり,より大胆にTRIPS協定の履行義務を免除すべきか(ウェイバー提案)、それとも、要すれば運用を見直しつつも強制実施権等による対応を基本とすべきか(EU提案)が議論され、TRIPS閣僚会議決定では後者に近い案が採用された。ここでは、強制実施権等は相対的に穏健な手段と位置づけられており、ウェイバー提案以前と比較すると、特許権を制限すべきか否かではなく、特許権をどのように制限すべきかに議論がシフトしている。その意味において、ウェイバー提案は、議論の重心をずらすことには成功したともいえる。TRIPS閣僚会議決定は、ウェイバー提案よりは穏健とはいえるが、従前から強制実施権等に消極的であった製薬業界からすれば、強制実施権等の活用を謳うTRIPS閣僚会議決定には不満が残るところだろう[12]
 
 不満が残るのは、ウェイバー提案支持者も同様だろう。TRIPS閣僚会議決定がウェイバー提案を骨抜きにしたと考えるウェイバー提案支持者は、巻き返しを図り、様々なフォーラムを活用して再び広汎なウェイバー提案を主張するかもしれない[13]
 
 また、ワクチン特許紛争の行方からも目を離せない。さらに、COVID-19の診断及び治療について今回のTRIPS閣僚会議決定の適用対象に追加するか否かを判断する6月の期限も本年12月17日に到来し、その判断が注目される。
 
 果たして第2幕はどのような結末を迎えるのだろうか。
 
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[1] 強制実施権は,政府が特許権者の許諾なしに第三者に許諾する実施権である。日本では、特許法83条、92条及び93条に規定があり、経済産業大臣又は特許庁長官の裁定により実施権が設定されるため、裁定実施権とも呼ばれる。また、類似の制度として政府使用がある。政府使用は、政府自身(政府の業務を委任された等の一定の範囲の第三者を含む。)が特許権者の許諾なしに特許発明を使用することができる制度であり、米国などの立法例がある(28 U.S.C §1498など)。強制実施権(裁定実施権)と政府使用は、特許権者の許諾なく特許発明を使用できる点やその場合に金銭を支払う必要がある点において共通しており、TRIPS協定31条は、両者を含む「他の使用」という概念の下で、両者の手続きや条件について定めている。 本コラムでは、強制実施権(裁定実施権)及び政府使用をまとめて「強制実施権等」という。
[2] 詳しくは、中山一郎「COVID-19パンデミック下での特許保護と医薬品アクセスをめぐる議論の諸相」高林龍=三村量一=上野達弘編『年報知的財産法2021-2022』(日本評論社、2022)14頁参照(ただし、執筆時期との関係で取り上げているのは、ウェイバー提案からEUの対案までの状況に限られる。)。
[3] ドーハ宣言(正式名称は「TRIPS協定と公衆衛生に関する宣言」骨子)は、2001年11月、WTOドーハ閣僚会議において採択された。その背景には、当時、アフリカ等の途上国を中心にエイズ(HIV/AIDS)が蔓延し、公衆衛生上の深刻な問題となる一方,途上国にとって抗エイズ薬の経済的負担は大きく,特許が途上国における医薬品アクセスを妨げているとの批判が生じたとの事情が存在した。ドーハ宣言のポイントは、TRIPS協定の柔軟性の確認にあり、具体的には、各国が公衆衛生上の必要な措置を取ることを妨げるものではなく,各国は,どのような場合に強制実施権等が許諾されるかを自由に決定することができること、強制実施権等を許諾する前に通例は要求される権利者との事前協議義務が免除される「国家緊急事態」とは何かについても各国が決定できることなどを確認した。要すれば、ドーハ宣言は、HIV/AIDSなどの感染症が蔓延するような緊急事態において,各国が独自の判断により権利者との事前協議なしに強制実施権等を許諾できることを確認した(筆者による当時の短いコラム参照)。
[4] 全ての途上国が適格加盟国(eligible Members)である(TRIPS閣僚会議決定脚注1)。ただし、現にCOVID-19ワクチン製造能力を有する途上国は、自発的にオプトアウトすることが奨励されている。
[5] TRIPS閣僚会議決定が適用される特許保護対象(subject matter of a patent)は、COVID-19ワクチン製造に必要な成分と方法を含む(脚注2)。一方、特許以外への言及として、TRIPS閣僚会議決定は、非開示の(臨床)試験データに関してTRIPS協定39条3項が要求する保護義務は適格加盟国によるCOVID-19ワクチンの迅速な承認を妨げるものでないと述べる(パラ4)。もっとも、この部分は、「公衆の保護に必要な場合」には非開示データの保護義務が免除されることを定めるTRIPS協定39条3項の内容を確認するにとどまると考えられる。
[6] そもそも「国家緊急事態その他の極度の緊急事態の場合」には、事前協議要件は免除あされる(TRIPS協定31条(b))。そして何が「国家緊急事態」に当たるかが各国の判断に委ねられることは、注4のドーハ宣言において確認されている。
[7] COVAX とは、先進国が中心となってCOVID-19ワクチンを共同調達した上で、途上国などに配分する国際的な取り組みである。
[8] ドーハ宣言パラ6問題とは、医薬品の生産能力が不十分又は無い途上国には、国内に強制実施権等を設定すべき企業が存在しないという問題である。そのために外国で強制実施権等により生産された医薬品をそれらの途上国に輸出しようとすると,強制実施権は主として国内市場への供給のために許諾することを要求するTRIPS協定31条(f)に反するおそれが生じる。この問題については,その後,31条(f)の義務を一定の条件の下で適用しないとする規定(31条の2)が新設される形でTRIPS協定が改正され,同改正は2017年1月23日から発効している。
[9] 輸出用強制実施権等について定めるTRIPS協定31条の2の適用対象は「医薬品」であり、「医薬品」とは、ドーハ宣言パラ1の公衆の健康に関する問題に対処するために必要とされるものである(TRIPS協定附属書1(a))。したがって、COVID-19ワクチンについても同条の「医薬品」に該当し、同条を適用可能とも考えられる(EU提案はそのように理解しているように見える。)。しかし、TRIPS閣僚会議決定が31条の2に言及していないことからすると、同決定は、31条の2とは異なり、途上国が途上国に輸出することを想定した新たな輸出用強制実施権等を設けるものと理解することもできる(その実益としては、31条の2及び附属書が要求する条件の緩和が考えられる。)。
[10] さらに、モデルナ(Moderna)は、COVAXを通じた92の低所得国及び中所得国向けの売上げに対して損害賠償を請求していない。従来、モデルナ(Moderna)は、パンデミックが続く間は、ワクチン製造者に対して特許権を行使しない方針を採っていたが、2022年3月に方針を見直し、COVAXを通じて92の低所得国及び中所得国に供給されるワクチンの製造に対しては特許権を行使しないが、上記92以外の国では、ワクチン供給はもはやアクセスを妨げる障壁ではなく、同社の特許技術を使用する者に同社の知的財産を尊重することを期待すると述べている(2022年3月7日声明)。今回のモデルナ(Moderna)の提訴は、見直し後の方針に沿ったものと思われる。
[11] 前田健神戸大学教授の指摘に負う。もっとも、金銭の獲得が最終的な目的であるとしても、差止めの脅威の下で交渉した方が多額の金銭を獲得しやすいとも考えられる。上述した製薬企業が最初から損害賠償のみを請求し、差止めを請求しないのは、差止めを請求することによってパテント・トロールのレッテルを貼られることを懸念したのだとすれば、やはり社会的評判を気にかけたともいえるように思われる。
[12] 日本製薬工業協会は、TRIPS閣僚会議決定に大きな失望を表明している。同様に国際製薬団体連合会も深い失望を表明している。
[13] 実際、WHOで議論されている「パンデミック条約」構想に関連して開催された2022年10月の非公式会議において、知財の免除(IP waivers)が議題の一つとされている。
 
 
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