遺伝資源の出所開示に関する新しいWIPO条約への検討(カラペト・ホベルト)

  • はじめに

ブラジルが再び、知的財産の歴史に関わる瞬間に大きな役割を果たした。WIPO加盟国は、2024年5月13日から24日にかけ、知的財産、遺伝資源および遺伝資源に関連する伝統的知識に関する条約案の最終交渉をジュネーブのWIPO本部で行い、ブラジルの世界貿易機関(WTO)常駐代表であるギリェルメ・デ・アギアル・パトリオッタ大使が外交会議の議長を務め、新しいWIPO条約へのコンセンサスによる承認にまで至った[i]

ダレン・タンWIPO事務局長は条約の採択について次のコメントをした[ii]。「今日は多くの意味で歴史を作った。これは十数年ぶりの新しいWIPO条約であるだけでなく、先住民および地域コミュニティが持つ遺伝資源および伝統的知識を扱う初めての条約でもある。本条約を通じて、知的財産制度が、より包括的に進化し、すべての国とそのコミュニティのニーズに応えながら、イノベーションを促進し続けられることを示した。」

また、パトリオッタ大使は新条約について「新条約は、非常に慎重かつバランスに配慮した外交会議の成果といえる。これは可能な限り最善の折衷案であり、バランスを取るために慎重に調整された解決策である。そして、その中には何十年もの間、常に関心の的となり、情熱的に表明および擁護されてきた様々な利害について橋渡しすることを目指している」[iii]と述べた。

ブラジルが議論の主導を務めたことでもあり、そのテーマはブラジルにとって関心が高いテーマでもあるので、新しいWIPO条約について少し検討したいと思う。

 

  • 「知的財産、遺伝資源および関連する伝統的知識に関する条約」について

新しく同意された「知的財産、遺伝資源および関連する伝統的知識に関する条約」の範囲は、基本的に、特許出願における特許請求の範囲に係る発明が遺伝資源に基づく場合、各締約国は出願人に対して遺伝資源の出所または原産国を開示することを要求するものである。また、特許出願における特許請求の範囲に係る発明が遺伝資源や関連する伝統的知識に基づく場合、各締約国は出願人に対して、その伝統的知識を提供した先住民または地域コミュニティを開示することを要求する。

条約の加盟国は、必要な情報の提供がなされない場合の措置を設けるとともに、国内法で規定されている不正または意図的な行為である場合を除き、出願人が不足情報を修正する機会を提供しなければならないことになっている。条約の開示要件に関して不正な意図がある場合には、制裁または付与後の救済措置が規定されることがある。

また、条約の加盟国は、各国の事情を考慮しながら、必要に応じて先住民、地域社会、その他の利害関係者と相談の上、遺伝資源および関連する伝統的知識のデータベースを構築することが可能とする。

 

  • 多少の検討

    • 執行に当たる影響力について

「知的財産、遺伝資源および関連する伝統的知識に関する条約」は、15か国が条約を締結した場合に発効し、遺伝資源および/または関連する伝統的知識に基づく発明の特許出願人に対する新しい開示要件が国際法上で定められることになる。条約についての同意が得られた最終交渉の最終日である2024年5月24日から、条約への署名が可能となった。これに伴い、同日に、アルジェリア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブラジル、ブルキナファソ、中央アフリカ共和国、チリ、コロンビア、コンゴ、コートジボワール、エスワティニ、ガーナ、レソト、マダガスカル、マラウイ、マーシャル諸島、モロッコ、ナミビア、ニカラグア、ニジェール、ナイジェリア、ニウエ、北朝鮮、パラグアイ、セントビンセント・グレナディーン、サントメ・プリンシペ、セネガル、南アフリカ、タンザニア、ウルグアイ、バヌアツの30カ国が条約に署名した[iv]

 すでに30カ国が条約に署名したことを考えると、15か国が条約を締結するまでにさほど時間がかからないと考えられる。しかし、上記の図をみると一目瞭然だが、IP5のどの国も署名していない。実は、米国、日本、韓国、カナダ、英国など先進国に連携して、条約の進展に関していくつかの懸念を表明した。必然的に、米国や日本などは出願人に不要な義務を課すとの判断の下、本条約に署名しておらず、今後も条約の署名には慎重を期す考えである[v]

したがって、中国、EU、ブラジル、インドなど30か国余りが既に出所開示制度を運用している上に、署名した国の範囲を考えると、必然的に「知的財産、遺伝資源および関連する伝統的知識に関する条約」が発効されても当面は企業側に大きな変化や影響を与えることはないと思われる。

 

  〇 実務的な範囲について

もちろん、遺伝資源・伝統的知識の出所開示義務が重要であるといっても過言ではない。すでに遺伝資源および関連する伝統的知識の開示要件を制定している国として、中国、ブラジル、インド、南アフリカ、およびドイツ、フランス、ベルギー、スペイン、スウェーデン、イタリア、スイスなどが挙げられる。WIPOの調査によると2024年3月の時点で33カ国以上において上記開示要件が制定されている[vi]

一方、署名された条約によるハーモナイゼーションという側面ではいろいろ限定的である。また、協力に関する規定が基本的に存在していない。「知的財産、遺伝資源および関連する伝統的知識に関する条約」の第6条で定めているデータベースを含む情報システム以外、あまり実務的に影響を与える規定は設けられなかった。たとえば、統一されたデータベースがあればおそらく各国がオープンに利用することができると考えられるが、A国の特許庁が、他国に由来する遺伝資源や伝統的知識の使用に関する情報を要求する仕組みも設けられておらず、A国がB国に対して情報開示の違反に対して制裁を課す仕組みについても同意に至らなかった。

一方、米国が提案した原案で承認された第5.3条の規定では、加盟国は、出願人が情報を開示しなかったという理由のみに基づいて付与された特許権を取り消したり、無効にしたり、執行不能にしたりしてはならないと定めている。これにより、加盟国が適切な開示が行われなかった場合の救済措置を定める可能性は著しく軽減される[vii]。また、適切な開示が行われなかったことに対する抑止効果をもたらす救済措置の策定も困難になる。

また、条約では、条約発効前に提出された特許の出願に対しては、遡及効を有しないため、実務的な面でも「知的財産、遺伝資源および関連する伝統的知識に関する条約」は現時点での問題を解決する方法とはなりえないであろう。

 

  〇 主体の範囲について

実は、この条約の交渉は2001年にWIPOで開始された。元々は1999年にコロンビアによる提案から始まり、最初は開示情報というよりも伝統知識に関する請求権と先住民及び地域コミュニティにかかわる権利の帰属がポイントであった[viii]。先住民及び地域コミュニティに自身の伝統知識等について明白な請求権があれば、たとえば、出願人が発明をするにあたり、アマゾンのシャーマンから提供された伝統知識を利用した場合には、当シャーマンが出願人に対して特許の権利化の範囲以上に救済を求めることが可能となりえる。また、伝統知識について財産的な権利が認めたならば、その権利侵害に関する救済もありえる。さらに、伝統知識および遺伝資源へのアクセスがあった場合には、特許出願の際の開示義務以外に暗黙の契約法上の義務が生じると定められたとしたら、契約法上の救済(たとえば、信義誠実の原則違反等)も考えられる。

しかし、現行の「知的財産、遺伝資源および関連する伝統的知識に関する条約」においては、特許出願の側面に関する規定についてしか同意に至らなかった。初期の議論からすると同意に至った主体の範囲は極めて狭いといえる。

また、もちろん、生物多様性条約(CBD条約)では、「遺伝資源の利用から生じる利益の公正かつ衡平な配分」(ABS)の概念を国際法上で導入され、ABSに関する国際的なルールを適正に実施するための措置として、2010年10月に「名古屋議定書」が採択された。

ABSに関する文言が本条約の承認されたテキストに盛り込まれなかったことは残念である。もし本条約が情報開示の慣行を発展させることができれば、「名古屋議定書」の実施に良い影響を与える可能性がある[ix]。しかし、ABSが扱われなかったことからも、同意された本条約のテキストが議論の当初の目標からどれほど離れてしまったかがわかる。

 

  • おわりに

「知的財産、遺伝資源および関連する伝統的知識に関する条約」は十数年ぶりの新しいWIPO条約でもあり、20年以上の交渉の結果としての側面では成功といえるものの、遺伝資源および伝統知識に関する問題を解決するものとして、どれぐらい影響があるかは疑わしい。実は、交渉の過程で、多くの国が条約を最終段階に移すことに反対した[x]。一方、多くの途上国代表団や先住民コミュニティの代表者は、本条約の制限的な範囲を認識しながらも、条約交渉の締結を喜んでいた。

いずれにしても、世界知的所有権機関(WIPO)を設立する条約の第3条にも規定されているが、「全世界にわたって知的所有権の保護を促進すること」が目的だと考えると、最初の一歩とはいえ、「知的財産、遺伝資源および関連する伝統的知識に関する条約」が促進への足掛かりとなれば幸いである。


(名古屋大学法学部講師・ブラジル弁護士 カラペト・ホベルト)


[i] WIPO Treaty on Intellectual Property, Genetic Resources, and Associated Traditional Knowledge, Diplomatic Conference to Conclude an International Legal Instrument Relating to Intellectual Property, Genetic Resources and Traditional Knowledge Associated with Genetic Resources, Geneva, May 13–24, 2024, WIPO Doc. GRATK/DC/7 (May 24, 2024), available at https://www.wipo.int/edocs/mdocs/tk/en/gratk_dc/gratk_dc_7.pdf.

[ii] World Intellectual Property Organization (WIPO), WIPO Member States Adopt Historic New Treaty on Intellectual Property, Genetic Resources, and Associated Traditional Knowledge, (May 24, 2024), available at https://www.wipo.int/pressroom/ja/articles/2024/article_0007.html.

[iii] 同一

[iv] WIPO’s Diplomatic Conference & New Treaty on Intellectual Property, Genetic Resources and Associated Traditional Knowledge (GRATK), Cannabis Embassy (May 2024), available at https://cannabisembassy.org/mexta/pm-geneva/gratk/.

[v] Japan External Trade Organization (JETRO), WIPO Treaty on Genetic Resources Disclosure Adopted; Korean Patent Office to Actively Respond with Advanced Nations, (May 29, 2024), available at https://www.jetro.go.jp/world/asia/kr/ip/ipnews/2024/240529.html.

[vi] World Intellectual Property Organization (WIPO), Genetic Resources Disclosure: Overview and Requirements, available at https://www.wipo.int/export/sites/www/tk/en/docs/genetic_resources_disclosure.pdf.

[vii] Third World Network (TWN), TWN Info Service on Intellectual Property Issues (May 24/06), (May 28, 2024), available at https://twn.my/title2/intellectual_property/info.service/2024/ip240506.htm.

[viii] Maria Grazia Dusina, WIPO’s New Treaty on Intellectual Property, Genetic Resources and Traditional Knowledge – A Turning Point for Indigenous Heritage?, European Society of International Law (ESIL) Reflections, Vol. 13, Issue 11 (Sep. 19, 2024), available at https://esil-sedi.eu/esil-reflection-wipos-new-treaty-on-intellectual-property-genetic-resources-and-traditional-knowledge-a-turning-point-for-indigenous-heritage/.

[ix] 同一

[x] Akin Gump, U.S. Seeks Comments on Text for WIPO Genetic Resources Treaty, (2024), available at https://www.akingump.com/en/insights/alerts/us-seeks-comments-on-text-for-wipo-genetic-resources-treaty.

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